中国語表現法研究  和文中訳

第七十三回〜八十四回


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七十三、四


市民のビニール袋の使用率が高いので、一時的な又は小範囲の対策では効果が現れにくいのです。昨年末、中国チエーンストア経営協会が発表した「スーパーマーケット省エネ問題の報告」が明らかにした所によると、中国の日用消費財の全小売業界が毎年消費するビニール袋の数は約五百億になります。広州だけでも毎日発生するビニール袋のゴミは二千万枚近くになり、二十万枚を一トンとして計算すると、ビニール袋がもたらすゴミは一年で千三百九十トン、ゴミの中に占める割合は3%から22%に上昇、十五年前の136倍になっているのです。

注):「快速消費品」の訳。もともとは英語の「Fast Moving Consumer Goods」から来たもので、食品、飲料、酒・タバコ、化粧品などが含まれる。

環境保護型のエコビニール袋を市民に広く受け入れてもらうのも今のところ難しい。これは主に二つの原因に基づいている。第一は、我々の政府部門が認証・管理監督などの手段を強化する以外には、市民が識別しやすい,規格に合った良品質のグリーン包装用品と専用マークを未だに提供できていないことです。第二は、その価格が高すぎて、二の足を踏ませているのです。話によると、超薄型のビニール袋は卸売市場では一般に一枚三分から五分だが、分解性のビニール袋は一枚一角五分ぐらいです。一日たった五百枚のビニール袋しか使わない商店にとって、一日六十元余りのコストアップとなります。こうした利潤とコストの差が人々を躊躇させる所があり得ないとは言い切れないのです。



市民のビニール袋の使用率が高いので、一時的な又は小範囲の対策では効果が現れにくいのです。昨年末、中国チエーンストア経営協会が発表した「スーパーマーケット省エネ問題の報告」が明らかにした所によると、中国の日用消費財の全小売業界が毎年消費するビニール袋の数は約五百億になります。広州だけでも毎日発生するビニール袋のゴミは二千万枚近くになり、二十万枚を一トンとして計算すると、ビニール袋がもたらすゴミは一年で千三百九十トン、ゴミの中に占める割合は3%から22%に上昇、十五年前の136倍になっているのです。


第七十五、六回

日本最初のウイスキー蒸留所――サントリー山崎蒸留所は1923年に大阪府と京都府の境にある天王山山麓の山崎市に誕生、日本のウイスキーの歴史の第一ページを開いた。創始者の鳥井信次郎は、後に「ニッカウヰスキー」を創立することになる竹鶴政孝を所長に招聘し、1929年に『サントリー 白札』を市場に送ったが、戦後は『サントリー ホワイト』に名を改めた。

心を込めて開発した原酒をもとに、更に『レッド』、『角』、『トリスTorys』、『オールド』などのブランドを作り出した。60年代になると、全国各地に主にウイスキーを提供する『トリスバー』が続々と誕生した。

『オールド』は80年代のウイスキーの黄金時代をリードしてきたが、瓶の形から『ダルマ』の名前でお馴染みである。当時の若者は会社に入ると、『レッド』を買って乾杯,昇進するにつれて,より高級な『角』、『オールド』に格上げしていった。「頑張って『オールド』」を手にしよう」は若者が出世のために励ましあう合言葉となった。ウイスキー評論家の土屋氏の分析によると,「日本経済の高度成長期に『頑張ればきっと,自分の社会的地位に見合ったウイスキーが飲めるのだ』というスローガンを打ち出したが、こうしたマーケッテング戦略は時代の潮流にぴったり合っていた」とのこと。



七十七、八回

社会の大多数の人々は家庭内暴力に対する認識を欠いている。家庭内暴力に対する社会大衆の意識は未だに「家庭内のもめごと」というレベルに留まっている。夫婦間の殴り合いは当たり前のことで、とりなしてやれば済む事だと思っている。

裁判所に夫を告訴する妻は特に理解を得られず、「情け知らずだ」とか、「子供の父親を監獄に閉じ込める」とか、「全く根性がよくない」とのそしりを受ける。こうした諸々の意識のために、弁護士が被害者の女性の関係者から証拠集めをしようとすると、証人は往々にして言葉を濁したり、ひどい場合は証言を拒み、被害を受けた女性の権利の保障を難しくしている。


現行の法律は主に暴力を振るったものに対する事後的な制裁に適用される。まさに発生しているとか、持続している家庭内暴力に対する救済措置が欠けている。被害を受けた女性の中には、家庭内暴力に遭遇したり、遭遇する恐れがある場合に、法律が夫に対して何らかの強制措置を取ることを望んでいる者もいる。

所が、今、公安機関や居民委員会が出来る事と言えば、暴力を振るった夫に誓約書を書かせるだけで、何の拘束力もない。誓約書を書き終わるや否や、家に帰って暴力行為を続ける夫もいる。

七十九、八十回(社劇)

私はこの二十年間、二度しか中国劇を見ていない。前半の十年は全く見ていない。芝居を見る気も機会もなかったからである。見たのは二回とも後半の十年のことだったが、何れもこれといって何かを見出すこともなく出てしまった。
第一回は民国元年に初めて北京に来た時のことで、その時ある友人に「北京はなんと言っても芝居が一番だ。後学のために行って見ないか?」といわれた。私は芝居見るのも面白かろう、しかも北京なのだからと思った。

そこで、興に駆られて何やら園へ駆けつけた。演戯はもう始まっていた。外にももうドンドンという音が響き渡っていた。我々は人ごみをかき分けて木戸口を入った。いくつがの赤や緑の光がパット目の前にきらめくと、舞台の下はまた沢山の頭で一杯だった。それから、気を落ち着けてあたりを見廻すと、中ほどに未だ空席がいくつかあった。かき分けて行って座ろうとすると、今度は私に文句をつける奴がいた。耳がガンガンなっている始末だったので注意して聞くと、「ふさがっているから、駄目だ」と言っているのがやっと聞き取れた。

八十一、二回

我々のこの映画は(とりもなおさず)、より多くの人達に今の上海のサラリーマン階層の生活の一面を分かってもらおうとするものです。上海は正に天地を覆すような大変化に直面しています。従って、一夜にしてとんとん拍子に成功して大金持ちになる者もいます。しかし、大多数の一般の人々は、相変わらず頑張って苦しみに耐えて生きているのです。同時に彼らは明日への希望にも満ち溢れています。只、この集団は常にないがしろにされているのです。


私の映画が描いているのは、正にこの無視されがちな集団の中の一つの小さな家庭であって、物語はこの家庭の中の祖母・母・娘の三代の間で起こります。

80年代以後、中国では改革が始まりました。そしていかなる社会の経済活動もそうなのだが、全て土地と関係してくるものであり、土地は住宅に直接影響を及ぼすものです。

今や土地は自由化されました。個人や外国の土地開発業者に売り渡された結果、分譲住宅という概念も出てきています。我々の物語は正にこのような転換期に生まれました。家屋は未だに男性に割り当てられたままだったが、人々は自分で家(の使用権)を売買出来るようになりました。こうして、母と娘は遂に自分の安住の地を手に入れることが出来たのです。

八十三、四回

昔の蚊帳は、一般の人々は大抵ラミー製、金持ちは薄い絹製だった。当時のベッドは大きくて、四隅に柱を高く立てて、ベッドと全く同サイズの木枠を支えていた。蚊帳は単に掛けただけでは済まされず、木枠を更に一巻きの布で覆わなければならない。囲った布には刺繍の模様が施され、房が垂れていて、あたかも柔らかな小部屋のようであった。蚊が入って来られないだけでなく、浮世の荒波や争いごとも皆蚊帳の外、安心して眠れる。


この二十年来、蚊は人間と同じく未曾有の挑戦に直面している。テレビのコマーシャルでは、防蚊剤スプレーは殺意満々、電気蚊取り器はかすかな匂いを漂わせ、低圧蚊叩きまでもが何時でも態勢を整えて、飛び交う客人を狙い打とうとしている。ここまで生きながらえた蚊は遂に悟る。蚊帳がだんだん使われなくなってきたのは、決して人と蚊の戦いが終わったのではなく、ただ人間が守りから攻めに転じただけで、しかも人間に敵う者はいないのだ。この成り行きは益々明らかになってきたと。