第三十七回                        2017年12月

昨年8月26日、廖さんは饒平県人民病院に派遣されるとすぐに、地方出向幹部の形で副院長に就任した。その時ある特別な贈り物を受け取ったことをいまだに覚えている。それは、当院の呉立初院長が贈った黒いノートだった。表紙には「敢于担当」(勇気をもって自分の責任を負う)の四文字が書かれてあった。

のちに廖さんは、それが呉院長の相当な心配りであったことを知る。饒平県は貧困県で病院の設備にも限りがあり、人材も足りず、医師たちの全体的な技術レベルや意識レベルも低かった。そして、チームで協力して任務にあたる能力を向上させる必要があった。

第三十八回                      2017年12月

廖さんが支援の道を歩み始めた時、娘はまだ2歳半であった。妻は二人目の子どもを妊娠して6か月を越えたころだった。家族の支持と家族に対する中山市人民病院の支援のおかげで廖さんはあれこれ他のことを心配せずにすんだ。

「『担当』というこの字に対して申し訳が立たなくなることを恐れていました。本当にずっしりと重い責任です」。このノートは彼の支援日記となった。中には仕事の計画や問題点や措置についてたくさん書かれていた。

「後になってだんだんと改善されていきました。あまりこういう風に書くこともなくなってきました。」

第三十九回                      2018年01月

わたしも若いころは、たくさん夢を見たものである。後にはあらかた忘れてしまったが、自分では惜しいと思わない。思い出というものは、人を楽しませるものではあるが、時には、人を寂しがらせないでもない。精神の糸に、過ぎ去った寂寞の時をつながせておいたとて、何になろう。わたしとしてはむしろ、それが完全に忘れられないのが苦しいのである。その忘れられない一部分が、今となって「吶喊」となった、というわけである。

第四十回                           2018年01月

ただ自分自身の寂寞だけは、のぞかないわけにいかなかった。それはわたしにとってあまりにも苦痛であったから。そこでわたしは、種々の方法によって、自分の魂を麻酔させ、自分を国民の中に沈め、自分を古代に帰らせようとした。その後も、もっと大きな寂寞、もっと大きな悲しみを、いくつも直接体験したり、傍から眺めたりした。すべでわたしにとって思い出すに堪えない、それらを私の脳と一緒に泥土の中に沈めてしまいたいことばかりである。が、わたしの麻酔法はきき目があったらしく、青年時代の慷慨悲憤の気持ちはもう起こらなくなった。

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家風や家訓は代々受け継がれる精神の滋養である。人の成長からいえば、校風や社会的習慣の影響は、これからも続くステップアップのプロセスである。家風は主に人生の啓蒙であり、校風は人生の充電であり、社会的習慣は人生の鍛錬である。

現在、家風と校風の関係は、早急に検討しなければならない問題である。二者はそれぞれ補完しあっているために、個人が強い精神の蓄積をもって、社会を解釈することができるのである。

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人生をマラソンに例えると、小中学校の段階は、5キロ地点である。42キロの試合では、初めの5キロの時点で一位か一番最後かは重要だろうか。

経験者であり教育者でもあり親である私がはっきり言わせて頂くのは、人の未来の発展は、小学校や中学校時代のテストの点で指し図ることはできないということである。しかしなぜ親というものは、子どものテストの点数を目の前にすると理性を失ってしまい、怒って人間性まで曲がってしまい、子どもの進歩や成長を評価する能力を失ってしまうのだろう。

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「民は食を以て天と為す」という言葉は、今の若者には「デリバリーサービスを以て天と為す」と言い替えができるだろう。デリバリーは、各種のオフィスビルにいる若者の日常の飲食にのみならず、列車の車両にも深く浸透している。「鉄道12306」のアプリから、一時間前に高速鉄道のデリバリーの予約をすれば、列車の中でのお決まりの食事である「腸詰とインスタントラーメン」からは解放されるのだ。

 

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デリバリーサービスは台所や主婦を解放した。職場では女性が受けるストレスは男性とほぼ同じであるが、残業を終えて家に帰って、一時間でご飯を作り、30分で皿洗いをするよりは、ワンクリックでデリバリーを頼んだ方が、30分以内で届けてもらえる上に、手間や時間が省けるのである。そして油や煙の立つ台所仕事で、夫婦ともに「油まみれ」成ることもない。「誰が食事を作って誰が洗うか」で夫婦喧嘩をすることもなくなる。

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町内の「市民サービスステーション」の前に通りかかると、魔法瓶が置いてあった。お湯を飲もうとしたら、中から冷たい水が出てきた。聞いてみたら、魔法瓶は何日前に上級部門がモラル向上化活動の視察に来るために、用意したのであった。

最近、町のあちこちのエリアや職場でこのような「サービスステーション」や「サービスカウンダー」と呼ばれるものが増えている。そこには普段忘れがちであるが、いざという時に必要になるものが置いてあり、好評である。

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残念なことに、一部の機関ではこの「市民に便利を」ための施設を、検査のために電撃に設置する。人々は上級部門検査訪問に備え、政績の見栄えを少しでもよくするためにお飾りのようなものだ、とふざけ気味に言う。

お湯が冷めたなら、もう一度加熱すればよいことである。しかし、人の心が冷めてしまうと、もう一度温め直すことは容易ではない。

第一線にいる現場の幹部や職員は人々に気持ちの機微をよく理解し、誠心誠意でサービスを行うことが、人々の心を温かくし、人々から信頼を得られ、よいイメージを樹立するのである。

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ようやく太陽がエリゼ宮の高い塀のかなたに姿を隠し、長い影が前庭をおおって、安らぎの時間をもたらした。その夏の最高の暑さを固録したその日は、夜七時になっても水銀柱はまだ二十三度を示していた。蒸せかえるような街々では、パリっ子たちが、週末を田舎で過ごそうと、不平たらたらの女房やわめき散らす子供たちを、車や列車に押し込んで陸続と繰り出していた。

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一九六二年八月二十二日、パリ郊外で待機していた一群男たちは、この日、フランス第五共和国大統領、シャルル・ドゴール将軍は死すべきだ、と結論を下していた。

パリっ子たちが川や海浜の涼味を求めて街の熱気をのがれる準備をしているころ、エリゼ宮の華麗な正面の奥では、延々と閣議が続いていた。

褐色の砂利をひきつめた前庭に、十六台の黒塗りのシトロエンDSサルーンが、じゅずつなぎに円を描いで停まっている。運転手たちは雑談をふけっていながら、気ままなご主人を待っていた。

新第37回〜第48回

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