新第25回〜第36回

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第二十五回                      2017年05月

そこで次の問題が出てくる。「文化大革命」はすでに過去のものなのか否か?
 我々は唯物主義者である。唯物主義の神髄は、事実に基づいて真実を求めることである。そうであるならば、「文化大革命」は未だ完全には終わっていないことを認めなければならない。表面的には終わったかのように見えるが、じっくり細かく見てみれば、決して終わってなどいないのである。

第二十六回                      2017年05月

「文化大革命」を経験した、特に迫害された経験を持つ中高年の知識人に訊ねてみるがよい。もし彼らから本音を引き出すことができれば、彼らが未だに晴らすことのできない無念や怨念をいっぱい抱えていることがわかるであろう。

今日の若者はそうではない。彼らは「文化大革命」がどんなものなのかわかっていない。「文化大革命」の話をしても、まるで外国の奇談を聞いているかのようだ。私が憂慮するのは、まさにこの点なのである。彼らは前車の轍について、まるで無知である。将来彼らがまた同様のことを起こさないと、誰が保証できるであろうか。

第二十七回                      2017年06月

マックス・ケラーダという名前からだけで、顔も合わせていないのに、どうせ嫌な男だと決めてかかっていた。戦争が終わったばかりの頃だったから、大洋航路の定期船で移動する客が大変多く、良い船室を確保するのは非常に難しかった。

旅行会社に「やっと取れました」と言われたら、それで満足しなくてはならない。船室を独り占めしたいと申し出るのは無理だったから、二人部屋が取れた時は有難かった。ところが、相客の名前がマックス・ケラーダと言うのだと告げられた時には、落胆した。

第二十八回                      2017年06月

この名前からは、夜の空気が一切入らぬようにと、舷窓がしっかり閉じられているというイメージしか浮かばない。誰とであれ、十四日間も(私はサンフランシスコから横浜へ向かっていた)同室するのは不快であるのだが、もし相手の名前がスミスとかブラウンとかいうのであれば、不快感も少しは和らいだであろう。

第二十九、三十回                        2017年07月

船長はためらった。だが対岸には、木々の間に守られるようにして、白人に家が見える。渡ろうと心を決め、少々びくびくしながら渡りだした。足元に十分気を付けて進んだが、それでも一本の丸大が次の丸大につながる、高低差がある箇所では、ちょっとよろめいた。最後の丸大に辿り着き、ようやく対岸の大地を踏んだ時には、ほっとして大きく息をつく有様だった。

第二十九、三十回                        2017年07月

危険な橋を渡るのに夢中で、誰かに見られているのに着付かなかったから、急に話しかけられてびっくりした。
「慣れていないと、こういう橋を渡るには、ちょっとばかし勇気が要るものですな」顔を上げると、目の前に男が立っていた。先ほど見かけた家から出てきたのはすぐわかった。

  「ためらっているのを拝見しましたな。滑り落ちるところを見ようと眺めていました」男はにやりとした。

Red》William Somerset Maugham 1921年

《赤毛》行方昭夫訳

第三十一回                      2017年09月

最近、騰訊が発売した携帯ゲーム《王者?耀》は、未成年のゲーマーの中では、これ以上ないほどの人気である。多くの未成年者はゲームにはまって学業はそっちのけで、巨額な金銭をつぎ込むなどの問題が出てきており、多くの保護者たちは頭を痛めている。それにたいして、騰訊側はタイミングよくある「神器」―「成長見守り」アプリを打ち出した。保護者はサイトから子供のQQや微信のIDにアクセスして、ゲームのロックをかけることができるというものである。

第三十二回                      2017年09月

携帯ゲームのゲーマーが低年齢化の傾向にあることは、すでに疑いようのない事実である。そのため、データや現実の状況のどっちであったとしても、騰訊の「成長見守り」アプリの配布は出るべくして出たものであったと言える。当サイトは、当面の間に、保護者に適時に子供がゲームで遊んでいる状況を教え、かつ各々の状況に応じて制限又は指導を行わせることができる。

第三十三回                      2017年10月       

中国人が貧しい原因の一つは、思想観念が保守的であることが挙げられる。全てのことにおいて、自分が中心で、正当であることを自任する。それに関しての史実は、中国古代史や近代史を見れば一目瞭然である。古代の封建社会においては、何度も王朝と皇帝が替わった。結果、形式だけ整えて中身は旧態依然と言う状態が今も続いており、社会は今も、同じ場所で同じことを繰り返しているだけである。

第三十四回                      2017年10月

そのため、何度も起こったすさまじい農民革命運動の最後の唯一の結果とは、新しい皇権統治を生み出すことであった。統治を行う新しい階級が革命初期に、「同一の労働に関しては同一の報酬を」「貴賎も貧富の差もない」「一切の権利は人民にある」などのスローガンが打ち出されたが、全て空手形に終わっている。それはなぜか。

第三十五回                              2017年11月

改革開放から30年以上が経ち、中国経済は繁栄し続けている。しかし、中国の社会的信用はそれと同じ歩調では発達しているとはいえない。例えば、街でお年寄りが転んでも、助け起こそうともしない様子が頻繁に見られるようになった。一体この社会はどうなったのか、と思わざるを得ない。

 お年寄りが転んだ時、助けるかどうか。伝統的道徳観の雰囲気では、問題にもならないようなことだ。しかし、現在は、どうするか考えないといけないような問題になっている

第三十六回                              2017年11月

 そうではないのか。水道をひねると、流れてくる水に有毒物質が含まれていないと信じること。道を渡るとき、車が全て赤信号で止まってくれると信じること。高速鉄道や地下鉄に乗っても、追突事故がないと信じること。眠っていても、この家は崩れることがない建物だと信じること。警察に通報しても、この警官は泥棒のグルでないと信じることができること。肉や魚を食べるとホルモン剤が心配、野菜を食べると毒性物質が心配、飲み物を飲むと人工着色料が心配、お湯を飲んでも有害物質が心配。私達は何を口にすればいいのか。