第212回                     2015年05月

後漢の時代、洛陽と長安は、二大商業都市で、洛陽は「東京」、長安は「西京」とよばれた。庶民の間では、東京、西京で買い物をすることを、「買東」「買西」と言った。その後長い年月の間に、「東西」は品物の代名詞となり、「買い物をする(買東西)」という言葉が広まっていった。

第213回                    2015年06月

「東西南北」というのは元々方角を表す言葉である。なぜ「東西」が物品の意味になったのか。ある昔話によると、宋朝の有名な学者である朱と関係があるという。

 ある日は道で、五行学に精通している親友の盛温が、手にかごを下げているのに出くわした。「何をしに行っていたのか?」と尋ねると、盛温和は「街で買い物(買東西)をしていたのだ」と答えた。

第214回     2015年06月

 朱憙はそこでポカンとした。「東西」という言葉は、当時まだ存在しなかった。彼は、分からず、「買東西とは、何の意味か。 なぜ「南北」を買わないのか」と尋ねた。
 すると、盛温和は笑いながら、「本当にわからないのか。 あなたのような大学者でも、時には智者の一失ということがあるものか。 5行と5方を照らし合わせれば分かるはずだ」と言った。 朱は頭を垂れしばらく考えて、ようやく閃いた。

第215回                     2015年07月

家庭教育の前提は、良好な親子関係にある。さもなくば、いくらよい教育理念があったとしても、実践ができない。しかし、多くの親は子どもが成長するにつれ、子どもの長所を評価する能力を失っていく。これは良好な親子関係も失われていくことにも関連する。

第216回                     2015年07月

 父母が子どもを評価しなくなる原因は、まず、現実と期待の差である。そして、面子である。自分の子どもがよその子よりも劣っている、といつも思う親がいる。これまでずっと、わが子にはよい所などないと思っている。親はよくこういう風に言う。「全くお前は。こんな成績で。何を考えているんだ。」

第217回     2015年10月  フェレンツイ山居閑話 徐志摩
 山中の客となる妙味は、なにより服装の色や風体にアレコレ悩む必要がないことだ。伸び放題の草のようなボサボサ頭に、顔中苔むした無精ひげでもかまわない。着たいものを着ればよい。牧童になろうと、年老いた漁師であろうと、農夫、狩人あるいは放浪するジプシーを装ってもよい。
第218回     2015年10月
 もうネクタイに気を使うこともない。そもそもネクタイを結ぶ必要すらない。首と胸にしばしの自由を与えてやろうではないか。 ただ肝心なことは、もっとも古い靴をはくことだ。たとえ不格好でも、靴はなにより可愛い友達だ。君の体重を支えながらも、君に足の存在を意識させることはしない。
第219回     2015年11月
 このような散策には、本も持っていくべきでない。本は理想的な連れ合いであるが、それは汽車に乗る時や旅先の部屋にいる時であって、独り散策する時ではない。
 いわゆる偉大にして深遠、我らを鼓舞し、清明で優美とやらの思想の根源を、自然の中の風や雲、起伏する山や大地に、はたまた草花の色彩や芳香に、求めずして、一体どこにあるというのか? 自然はもっとも偉大なる書物なのだ。

第220回     2015年11月
 心のなかに過去の囚われを閉じ込めず、眼を見開き、耳を澄ましさえすれば、この無形の最高の教育は永遠に君のものとなるのだ。 この無償にして最も尊い栄養剤は永遠に君のために用意されている。 自然というこの書物を知っていれば、寂しい時には寂しさをまぎわらせ、困窮した時には苦しみを和らげ、悩める時には慰めてくれて、挫折した時には励まされ、弱気になった時には鼓舞してくれて、迷った時には羅針盤となってくれる。

第221回                 2015年12月

小王:趙さんの家では自転車4台ごっそり盗まれて、趙さんは怒りで何日も食事が喉を通らなかったらしいよ。

李明:このあたりは、もっと早くから力を入れてちゃんと取り締まるべきだったんだ。

ひどいありさまで、真昼間で見張りもいるのにしょっちゅう物が盗まれる。あの

守衛たちは何をやってるんだ、全く役に立たない。

第222回                 2015年12月

小王:その通りだよ。あの日は怒り心頭に達して怒鳴ってやったんだ。ずいぶん文句を言ってうっぷんは晴らしたけど、取られたことに変わりはない。

   だから今は毎日2つの鍵で自転車を木に止めているんだ。これでも取られるかどうかだね。ほら、これはハイテクな鍵で2つ使えば安全性も2倍、これが一番頑丈だよ。

第223回                              2016年1月

湖南省湘潭在住の妊婦張さんは、分娩の際の羊水塞栓症の疑いによる多臓器不全で、救命措置も力及ばず死亡した。出産のときに発生した不幸な事件であるが、医療者側と患者側のデリケートな問題を再燃させることとなった。患者は病魔から救いだせないのか。医師や病院側に責任があるのか。

第224回                              2016年1月

 事件の発生当初から、ある報道では「涙」「惨死」などの無責任な言葉を繰り返し、患者側の一方的な内容のみを並べ伝えた。こうした論調は、病院側が冷血でやるべき治療を行わず、患者の生命を軽視している印象を読者に与えやすい。病院側の声や核心的な事実の無い報道は客観性に乏しく、人々を主観的判断に陥らせることになる。

第225回                           2016年2月

 当然、羊水塞栓症は致死率が非常に高い病気だから、病院側には責任がないのはもっともだという認識は誤りである。 責任の所在は厳格に判断されなければならない。このように軽率に取り扱われるべきではない。

白い紙に赤い光を当てると、紙は赤くなるし、青い光を当てると青い紙になる。社会で起こった事件について判定を下す際、紙そのものの色を考慮しなかった場合、人の話の受け売りだけとなり、偏った考え方となる。

第226回                           2016年2月

情報が不足していて、結論がまだでないうちは、どのように語るべきであろうか。ある情報伝達の研究者は「医療事件発生の原因は複雑なので、報道の際、記者は特に慎重に行うべきである。安易に医師や病院の責任であるとするべきではない。少なくとも、まずは専門家に尋ねて、笑いものにならないようにすべきである。」と述べている。




第212回〜第226回


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