窃読記 林海音 作
第167,168,169,170回
街角を曲がると、そびえたつ三陽春の看板が見える。料理を炒める香りが漂い、杓子を叩く音が聞こえてくる。私はほっと一息ついて歩みを緩めた。授業が終わって学校から急いでここまでやってきたので、体中汗だくだった。どうやら目的地にたどり着いたわけだが、お目当ては三陽春ではなくすぐ隣の本屋なのだ。
私は歩みを緩めたついでにて考えてみた。「昨日はどこまで読んだっけ。あの子は誰のお嫁さんになるのかな。あの本はどこにあったっけ。左角の三列目で間違いなし・・・」三陽春の入り口のところに来ると、本屋の中は相変わらず客で混んでいるのが見える。シメタ! だが、あの本はまだ売り切れていないだろうか? それが心配だった。ここ数日毎日のように買って帰る人を見ていたから。昨日は恐らく一二冊しか残っていなかっただろう。
よかった、なんとまだあるではないか。本棚にデンと鎮座したまま私の来るのを待っている。私は嬉しさのあまり我慢できず、手を伸ばして本を手に取ろうとした。するとその瞬間、別の大きな両手が現れた。十本の指を大きく開いて本全体を抑えつけた。「買うの?買わないの?どっちなの?」声は小さくなかった。他の客は驚いて、皆振り向いて私を見た。本屋の主は意気揚々と私を見下ろしていた。
皆が注視する中,私はうろたえんばかりに店を出た。すぐ背後で主の冷笑を含んだ声が聞こえた。「初めてじゃないんだ」。「初めてではないって?」その口ぶりは優しく思えたものの、いかにも私が許せない窃盗の常習犯のように聞こえた。だが、私が何かを盗んだとでもいうのだろうか?わたしはあの本を買う力はないけど、読みたくてたまらない貧乏学生に過ぎないのだ。
第173,174,175,176回
今回屈辱を受けて、私の心は確かに深手を負った。貧困による私の劣等感がぶり返して、大人への恨みが湧いてきた。
もう本屋には行くまい。何度か文化街を通ったが、やましい気持ちを押し殺し、歯を食いしばって通り過ぎた。だが、一度二度と知らぬ間に、あの勝手知った街に足が向かった。ついにある日、知りたい一心からまた足を止めた。私はなおもやってみたかった。何故ならある新しい本の出版広告を何日も前に新聞で見ていたからだ。
わたしはもう一度例の手を使おうと、本屋の片隅に又身を隠した。一ページ目を開いたとき、思わずそっと呼びかけた:「やっとお会いできましたね。」これはベストセラーだった。その分厚い本は手に取ってみても、読んでみても充実感は十分だった。前回の教訓から私は注意をはらって、ほどほどにすることにした。前のように恥ずかしい思いをしないように何軒かの本屋を多く廻るのが良いのだ。
本屋から出てくるたびに、私はまるで酒に酔ったようで、頭は本の中の人物でかき乱され、足がよろめいてコントロールがきかなかった。「明日早めに来れば、全部読み終えるぞ」と自分に言って聞かせた。明日も本屋の片隅を独り占めできると思うと、嬉しさのあまり有頂天になって、危うく体を木の幹にぶつけるところだった。
第171〜172回
陳: 今日日は何を買うにしても、奥の手を残しておかないとね。レシートはもらっておかないとだめだ。いざというとき、そうした証票の類が物をいうんだ。まあ、失敗して一つ利口になったと思うことだね。本当に気が済まないなら、訴え出るんだ。さもなければ、上に書いてある住所のメーカーに直接行くんだな。メーカーはどこ?
張: 見ろよ。上には「広東省製造」としか書いてないよ。広東はあんなに広いというのに、どこに行ったらいいんだ。やめた。こんなくだらないもののために、あちこち探し回るなんてやっていられないよ。これ以上カッカするようなことになったんじゃ間尺に合わないよ。もういい。運が悪かったことにしよう。
陳: そうなると、その60元は無駄になっちゃったてわけだ。だけど、お前さんもお前さんだよ。家にはテープレコーダーだって、ステレオだってあるというのに、ラジオなんか買うことないじゃないか。今時、まだラジオを買う人なんかいやしないよ。お前さんと来たら、こうと決めたら後に引かないんだから。
張: ちょっと便利な思いをしてみたかったんだ。ニュースを聞いたり、京劇を聞いたり、どこにでも持っていけし、いい考えだと思ったんだけど。やれやれ、今時の個人商店ときたら。本当に奴らのとこで買い物なんか真っ平だ。いつ何時してやられて、だまされるか分かったもんじゃない。