中国語表現法研究  和文中訳

第一回〜第十二回


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第一、二回

この物語は比較的通俗で分かりやすいので、殆どの人は単なる笑い話だと受け取り、深刻な風刺小説とはみなしません。しかし実は、我々はこの物語から学習に関する経験と教訓を汲み取るべきなのです。初学者の最も重要な問題は生齧りで止めてはいけないという事です。

軽率な人の中には、漢字の一、二、三や、外国語のA,B,C等がやっと出来るようになると、例の金持ちのドラ息子のように、ややもすると「小躍りして」、「分かった」、「分かった」と何でも分かったような気になる人もいる。

これは又、少しばかり型を習ったばかりで、大抵は自分はたいした者だと思い込み,どこででも勝負をしたがる拳術を習っている人と同じです。だけど、多くのことを会得し、本当にいくつかの技能を身につけた人こそかえって, 虚心になるのです。このように、能力のないものほど自惚れが強く、能力のあるものほど謙虚で慎重なのです。

第三回

過度の包装は限りある資源の無駄使いであるばかりか、消費者の利益を甚だしく損なっているのです。自分や家族が使うために買った商品なら、綺麗に包装してなくても何ら構わないが、プレゼントとして人に贈るとなると、どうしても丁寧で綺麗に包装してなければなりません。但し、これもやはり程度問題であります。表の包装は「引き立て役」で「主客転倒」になってはならないのです

第四、五回

政府と企業の間のもつれた関係は未だに解決されていない大問題です。政府部門の監督・管理が妥当でなく、つまり、なすべき事を蔑にしたり、うまくこなせなかったりすると、これは一種の機能欠陥です。

政府部門がひとたび越権行為をして、管轄外の出来もしない事を敢えてすると、機能欠陥は避けられなくなります。政府部門の当面の急務は監督・管理機能を如何に適切に運用出来るかです。

第六、七回

面子を重んじ、面子を大切にするのは、中国人独特の心理かも知れません。中国の伝統的な道徳基準から見ても、そもそも大切に尊重すべきものです。面子が欲しければ、着実に仕事を成し遂げ、自分の行動に対し社会のお墨付きを貰わなければなりません。

気まずくなったり、感情を害するのを恐れて、成り行き任せに無責任にやたらに面子を立ててやると、コネ作りという不正の風潮をはびこらせることになります。不正や悪巧みに走らず、考え方が立派で、業績が抜群の人たちは、競って面子など求めなくても、自ずとついてくるものです。

第八、九回

まさに、わが国の一部の企業が鳴り物入りでその概念や名称を囃したて、功をあせって「ナノ」を騙り、商売で目先の儲けをむさぼっているさなか、海外の一部の先進国は技術転換のテンポを加速している。日本の東レ、三菱化学、富士通などの大会社は続々と巨額の資金を投じて、ナノ研究所を設立し、ナノ技術をそれぞれの産業に取り込もうとしている。

 こうした現実を前にして、我々はもはや軽々しくあしらったり、また近視眼的な態度で臨むことは許されません。産業化の研究と実践にしっかりと取り組まなければ、再び落後の憂き目に会い、前車の轍を踏むことになるでしょう。我々はナノ技術の実用化を目指して、産業化の研究を一歩一歩着実に進めていかなければなりません。



第十、十一回(藤野先生)

たつ数日前、先生は私を家に呼んで、 一枚の写真をくれました。裏には「惜別」の二字が書かれていました。そして 更に、私の写真も贈って欲しいといわれた。だけど、その頃、私はあいにく写 真をきらしていました。すると先生はいずれ撮ったら郵送するように、そして常 に連絡を取ってこれからの様子を知らせるようにと言われた。

仙台を離れてから、私は長年写真を撮ることがなかった。又、情況もあまり芳しくなく、お知らせしても先生をがっかりさせるだけなので、手紙さえ書こうという気にもならなかった。年がたつにつれて、益々何から書き始めたらよいのか分からなくなり、時には手紙を書こうとは
思っても筆をとれなかった。こうして今日までとうとう一通の手紙も一枚の写真も送らずじまいになってしまった。 先生にしてみれば、行ったきり、何の音沙汰もなくなってしまったのである。

第十二回

中国の電子政府応用モデルプロジェクトは、主として現今の電子政府を確立しようとするグローバルな流れと、中国のWTO加盟という大きな背景に即応して提案されたものです。その主な目的は、中国の各レベルの政府が電子政府プロジェクトを全面的に展開するに当たって、国益という高い見地にたって、統一された安全な電子政府の基盤を構築して、中国の実情に合った電子政府を確立するためのモデルを探し出すことにあります。