〜時は近未来・・・

全世界を巻き込んだ、長い勝者無き戦争の果て、、

人も国も傷つき、全てが一からのやり直しとなった時代。

新しい日本を造ろうと理想に燃える者達がいた。

その想いはやがてひずみを生じ、TOPとUNDERという二つの道を創り出す。

規律という名の元、力で全てを支配しようとするもの達と、自由を求めそれに抗うもの達。。

混乱の中、それぞれが己の'生きる'道の為にぶつかり合う。

日本男児・坂上高仁(こうじん)−UNDERで育つ。ちょっと破天荒で美人に弱い。

 夢を見る力、信じる力に溢れている。

TOP官制軍リーダー・武村亮−自分の手で日本を変えると言う夢の為TOP組織に入り込む。

 が、自らに迷いを生じあと一歩を踏み出せずにいる。真面目で武骨な男。             

相対するふたりだが何か通じるもの、感じ合うものがある。

そんなふたりを軸に'自由'を取り戻す為の闘いが吹き荒れる。。〜


大輔さん演じる高仁。彼の夢は「きれいなお姉さん達が辛い思いをしない世の中を造ること。

自分のように父母の顔を知らないものを一人も造らないこと。世界中の女が自分に惚れること。」

熱くて大らかでちょっといい加減さもあって、どこか清々しい。

大輔さんの持ち味が遺憾無く発揮されたキャラクターだったと思う。

のっけからイイ男なんだけれど、武村や由香(高仁の一目ボレの相手)と出逢い、

自分の知らなかった世界を見、そして大切な人を失う中で少しづつ深みが増して

最後に本当にカッコイイ男になっている、その過程がきちんと出ていた。

殺陣も見事だった。失礼を承知で言えば絶対以前より上手くなっているのだと思う。

安定感があってキレもある。とにかくキマっていた。

高仁という役が大輔さんという役者を得たことで更に魅力的なものとなったのは間違いない。。


お芝居全体は痛みを感じるが、笑いもあり暖かさも少し加わって、観終わってスカッとするものがあった。

琴線に触れた・・というよりは、目一杯弾かれた感じがする。

話し自体は文章にしろと言われるとちょっと難しいのだけれど(私の理解力不足かもしれないが)、

余計な説明台詞などがない分、かえって解りやすく思えた。また、言葉の一つ一つ、動きの一つ一つが

テンポ良く、でも丁寧に意味や感情を伝えてきていた。

笑いの部分もきっちりやりきっているので、テンポも崩さないが芝居の中で流れてしまうことがなかった。

高仁とぶつかり合う武村を演じた激富の看板役者・はだ一朗さん。

とても目に力があって、真っ直ぐな視線に合うと目を逸らせなくなる。理想を持って夢を語る回想シーンは

希望と力に満ち溢れた目、新しい日本を築く為「鬼になる」と言い放つシーンは、怒りが渦巻いているその

真中に深い哀しみと痛みが宿っている感じの全身の表情・・目の色がぐっと濃くなる。苦しくて涙が流れてきた。

ウィルスを打たれやや狂気を帯びた言動になるとその目の暗さにぞっとさせられた。

そして何より殺陣をやってる姿がカッコイイ、本当に画になる。とても真っ直ぐさを感じる役者さん。

お芝居の見所はたくさんあるけれど、その大きな一つは立ち回りの素晴らしさだった。

スピード感があるがとても正確で繊細さもある。全体を見たときにバランスと言うか見栄えが良くて

その場の主になる役者さんのカッコ良さが際立っていた。

個々も、高仁はダイナミックでちょっとやんちゃ、武村は真っ直ぐで一太刀一太刀が重く、燠田は鋭くて

自分を切り捨てていくよう、と言った感じに役の色が出ていてすごく感情が乗っている様に伝わった。

あの狭い空間での臨場感が加わってその迫力にはゾクゾクさせられた。



『自由と痛み』・・私は昔から自分を表に出すことが苦手で、だから多少の枠や規制がある方が楽だった。

周りからはぐれるのは寂しくて、かと言ってうわべだけの集団とか派閥みたいなものにはものすごく

抵抗感があって、変に冷めたところがあった。でも自分から何か一歩を踏み出す勇気はなかったし、

臆病だと自己嫌悪に陥るのが関の山だった。あの頃は自分が自由かと考えてみたことも、

自由になりたいと思ったこともなかった気がする。ただ今思い返せばその頃だって自由を求めてはいたんだと思う。

自分の自由を模索してはみるものの臆病過ぎて痛みを受け入れられなかったんじゃないだろうか。

逃げてしまっていたんじゃないだろうか。今は変わったのかと言えば・・自由=勝手気ままではないこと、

責任も痛みもあること、その上で自分の意志で行動すること・・ぐらいは解った。。と思う。

そして高仁流に言えば、今も昔も私は自分から痛みを作ってばかりいる人間なのだと言うことも。

人は自由を求め、痛みを知る。痛みを知ってもまた自由を求める。

自由が常にイイ顔ばかりはしない、醜さを伴うこともあるとわかっても求め続ける。

一歩踏み込んでいくことは力が要る。だからそれを受け止め進んでいく人は人に優しくなれるのかもしれない。

それを知る人にはより強い力となって宿る『JIN』・・仁=思いやり、慈しみ。。


「俺は鬼だ、日本の鬼だ。」全ての痛みや哀しみを背負い込む様に必要悪としての鬼と化す武村。

「俺も鬼だ。ただの鬼じゃねえ、仁の鬼だ。」痛みや哀しみを受け止め、優しさという力がより強くなる高仁。

人の心の暗部に巣くうのも鬼、一身を賭して何かを成す人を鬼とも言う。人の中に棲む鬼の顔も様々。

高仁も武村も自らの強い意志で'鬼'となる。簡単に正しいとか間違っているとか切り捨てられない、

想いと生き様がそこにはあった。

'鬼'というの頭においてを作品を思い返していたら、ふと『泣いた赤鬼』を思い出した。

たぶんこの舞台の要素と通ずるものがある気がしたから浮かんだのだと思うけれど、

常に'なんとなく'が多い、いい加減な思考回路の持ち主なのでなんとなくのまま。。

幼い頃は何で泣けるのかなんて深く考えない、、赤鬼が泣いているから、青鬼が可哀想な気がするから。

しばらくするとその感情に痛みとか切なさとかの名前をつける、それからなぜそう感じたのか考える。

今度は青鬼や赤鬼が何故そうしたか、どう思っていたか等などを考え出す。

ついでに人間の言動についても考える。その後はどうなったんだろう何てことも考えたりする。

今は、読み返しても答え探しはしない。'正しい'答えって言うのはないのだと思うから。

ただ高仁だったら赤鬼にも青鬼にも「それって間違ってねぇか?」って言うかな?とちょっと考えた。


物語でもお芝居でも、表現を受け取るってことは様々なことを考えるきっかけになる。

でも単純に先ず、何かを感じることが大切なんだとも思う。'何か'はいくらでも後で考えられるから

捕まえておくだけでいい。

その'何か'がたくさんありすぎて、まだまだ言葉にできない、ならない『JIN降臨』。

TOPとUNDERと言う単純な戦いではない、剣を交えると言う意味のみならず

そこにいる全ての人達の信念に基づく'自由'を問う自分自身との'闘い'のお芝居だった様に思う。

観ている側にとってもそれを受け取ることは闘いだった。